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「アマゾネスのように」…ベストセラー作家中島梓さんの乳ガン闘病記

  • 書籍データ
    • タイトル アマゾネスのように(文庫版)
    • 著者 中島梓
    • 出版社 ポプラ社
    • 初版 2008年10月5日
目次

昔からファンだった中島梓さん(栗本薫)私も同じ乳ガンに

中島梓さんと言えば、私と同世代の方なら「クイズヒントでピント」の紅組キャプテンとしての姿を思い出すかもしれませんね。そして読書好きの私としてはむしろ小説家「栗本薫」さんとしての方がずっと身近な存在でもありました。何しろ「グインサーガ」との出会いはヒロイックファンタジーも大好きな私としては、初めて出会った「和製」ヒロイックファンタジーなので夢中になって読んだものでした。そんな中島さんが乳ガンであった事実を私はずっと知らずに過ごしてきました。(2004年以降韓ドラにはまった私は、読書からかなり離れてしまっていたんです)

そんな私が実際に自分が乳ガンになり、闘病5年を経過した昨年、たまたま数年前に刊行されていた「栗本薫と中島梓」(没後10年グインサーガ誕生40年記念出版)という本を見つけて読み始め、そこで中島さんが乳ガンとすい臓ガンだった事実を知りました。(この本についてはまた別に書かせていただきます)そしてその闘病記があるということで見つけたのがこの文庫版「アマゾネスのように」でした。

乳ガンで心が苦しい女性にこそ読んでほしい闘病記

全てを読んでみて思ったのは、これは乳ガンと共存しながらもなんとか普通の生活が送れているように、意外と落ち込みの小さめだった私のようなものよりも、心が乳ガンにとらわれて「今が幸せに思えない」「どうして私だけがこんな目に」と思っている人にこそ読んでほしいということです。

  • ちなみに私の場合
    • 2017年に放射線治療の入院で3週間、休職8か月、
    • 2018年乳房除去手術で入院1週間(その後1週間ほど自宅療養)
    • 2020年8月リンパ除去手術に至っては日帰り手術に翌日からの出勤
    • 現在も抗ガン剤は継続中です

昔の本なので手に入れるのはちょっと難しいかもしれませんが、私もネットで購入できました。中島さんの乳ガンは1990年に発見、手術で3週間ほどの入院なので、ご本人も書かれていますが今は医療技術は当時よりはるかに進んでいると思います。ですが、告知の時のショック、その後の仕事や家族のことなど、女性ならではの悩みごとも書かれています。ガンになってどんな思いで過ごしていたのか、経験者の一つの例としてはとても参考になる本だと思います。また私は性格的なこともあるかもしれませんが、個人的にこの本のほとんどの部分に共感を覚えました。

ただでさえ超多忙な小説家の中島さんでしたが、ガンが分かった37歳の当時は、翌年1月からのミュージカル舞台の準備に忙殺されていて、入院が決まってできるだけほかの人に仕事を依頼したものの、実際はガンのことよりも舞台の方に気を取られていたみたいです。病院からけいこ場に通った日もあったということで、病においてもとても前向きでパワフルな姿勢は読んでいる私にも元気をくれるような気がしました。そして7歳の息子さんを抱えながら、ご主人の献身的な支えがどれほど助けになっていたかも、とてもよくわかります。

十八年後にひとつだけ、お伝えしたいのはーそう思ってどなたかに解説をお願いするのではなく、自分であとがきを書きたいと思ったことは、「私は、十八年前に乳ガン患者になり、右の乳房を全切除しましたが、そのあとずっといろいろ大変だったけど、基本的には幸せでした」ということです。そうして「いままたすい臓ガンの患者になって、来年にはいないかもしれませんけれども、それでもやっぱりいまも私は幸せです」ということです。

私がいま、皆さんにお話ししたいことがあるとすればそれにつきる、と思われるのです。そしてそれは、自分がたまたまラッキーだったからとか、前向きだったからとか、そういうわけじゃなくて、ただ単に「そのことに気付くことが出来たから」だけなんだ、ということ。ー本当は誰もが、ガンになろうとなるまいと、本当は幸せであるはずなんだ。この世に生まれて生きてゆける、ということ、それだけでとても幸せなんだ。ということをー「お話しするのはそれだけなの」これは「泣かないでアルゼンティーナ」という私の好きなミュージカルの歌で、三十代でがんで死んだエヴァ・ペロンが歌う歌の一節ですが。

私は幸せです。好きな小説を書き、四季折々の美しい自然や花にあい、緑にあい、好きな人々にあい、好きな曲にあい、好きなことをやって、乳ガンもすい臓ガンも、ガンの宣告も私を不幸には出来ませんでした。そうであることは本当は誰にでも出来るんだろうと私は思っているわけです。

文庫版あとがき p348

これは私が手にした文庫版あとがきの一部です。このあとがきの翌年中島さんは亡くなられましたが、おそらくはこの言葉通りとても幸せな生涯だったのだと思います。私も告知から5年半たちますが、当時の乳ガンステージⅣの5年生存率は36パーセントといわれていました(現在でも40パーセントには届いていないみたいですね)。でも数字は数字、わたしはいまも生きて普通に生活しています。もちろん今でもガンは体の中にありますし、治療は続いていて、どこまで共存できるかというところですが…。そして、中島さんの言葉にもありますが、私にとっても「幸せ」についてはむしろ病気になる前よりも大きくなっているんですね。そんな私が読んでみて感じたことを書いておきたいと思います。

病は気からというけれど、くよくよしないことも大事

それではここからは本文の一部を引用しながら。

私はただ単に運がよかったのかもしれないし根が丈夫だったのかもしれない。しかし私の友人知人で何人かがやはり同じ手術をうけた女性がいるのだが、非常にはっきりとしていたのは、活動的で明るい性格の人は予後が非常によく、そうでない人ほど回復までに時間がかかっている。ということであった。

試練 p203

ここほんとに私も実感していることですし、告知された当時何冊も読んだガン関連の本にも何冊か共通して書かれていました。もちろん全部が全部ではないんですが、傾向としてはあるみたいですね。私がガンになった時に、パワフルで海外旅行にもガンガン行っていて、とても行動的な人が実は乳ガンだったというのが分かってビックリしたことがありました。

まったく人間というものは精神的などうぶつなのである。完全に復調するまでに三年が必要か、一年か、半年か、一ヵ月か、それによってなんとそのあとのその人の人生は違ったものになることだろう。それがもし精神力だの、あるいは持って生まれた体力によるものであればこれはやむをえない部分もあるけれども、手術だの後遺症なんかまったくなかったことにしてどんどん腕も体も使ってしまったほうが、どうも絶対によい結果を生むように思われてならない。

試練 p204

これもね、私も確かに「なっちゃったものはしかたない」「今できることをやるしかない」という基本スタンスのせいなのか、重い物を持たないようにするとか、副作用のせいでできない仕事はいろいろあるんですが、仕事で配慮してもらってできることをフルタイムでしているので、病気を知っているひとでさえ、病人だとは思えないと言われることもしばしばあります。無理して傷を開いたりするのは問題外ですが、おそるおそるでも自分のできることを増やしていく方が確かに回復への道ですね。なんでもいきなりはできないとおもって、少しずつ広げていく感じで。リンパ節の日帰り手術なんて、次の日から仕事をしてもいいと先生に言われて、ついつい何度も「ほんとにいいんですか?」と聞き返したものです。実際しばらくは腕を動かさないようにできる仕事にしてもらいながらも、翌日から出勤しましたしね。

主治医の先生との出会いも大事なこと

なんとなく同じ外科医でも、患者をなんとなく元気にさせるタイプと患者をなんとなく意気消沈させるタイプがあるのは不思議です。私の考えでは感情表現のヘタなタイプの医者というもののは腕とは関係なしに患者を意気消沈させたり回復を遅らせたりするような気がします。あるいは感情表現がヘタもなにも、患者に対してそういう人間的なかかわりを一切もちたくなそうな医者とかね。外科医などというものはそれこそ医者ドカタ(失礼)で何も患者の精神とはかかわりなさそうにも見えるのに、実際には嬉しそうに「元気になりましたね」とひとこといってやるだけでもそうでない医者よりもたくさん患者を元気にできるものです。これは不思議なことです。

試練 p208-209

中島さんはいい先生に出会えたようですね。先生の転勤に合わせて転院までされていたみたいですから。普通に告知されたことも感謝しているとのことです。もしガンであることを隠されてしまっていたら、時間を無駄にしてしまっていただろうとも書いています。

私もガンの告知を受けた時に先生の「まだやれることはあります、いっしょに頑張りましょう」の一言が、いまでも心の支えになっているのではないかと思います。先生の穏やかな話し方は安心感を与えてくれますから、まちがいなく元気を与えてくれるタイプだと思います。もちろん相性もあるかもしれないですけどね。

私の場合は当初手術できないほどの大きさでした。骨転移、肝転移、リンパ転移と、かなり深刻な状況で、痛み止めと放射線と抗がん剤の副作用で体重は一気に15キロ落ちるほどでした。思い出してみるとずいぶんとひどい状況でしたが、8か月でなんとか復職することができました。思えば常に今の状況を正確に教えていただけたから、今やるべきことを選び続けてくることができたし、頑張れたのだと思います。

休んでいる間は飲んでいる痛み止めの成分のせいで車の運転が禁止されていたので、とにかく体重が落ちて足の筋肉が極端にやせてしまっていので、できるだけ散歩をして昨日よりちっょとずつ遠回りして歩いたことが、今思えば回復の助けになったかな?と思っています。寝ているより動く、これとても大事です。でもできる範囲で無理はしないのは当然です、病人ですからね。

でもふと思うときがあります。もしあのとき先生にそれを言われていなければ…もしかしたら私はいま生きていなかったかもしれないな…と。時折ついつい見てしまうガン関係の書き込みなどを見ると、やはり主治医の先生との巡りあわせもとても大事なことで、私はとてもラッキーだったのだと思いますね。そのためにセカンドオピニオンという制度はあるみたいですけど、幸いに私には必要なかったようです。

まずはストレスと過労を避けること、そしてどう受け止めるかがとても大切

思えばストレスと過労には心当たりがありすぎました

とにかく一番の敵は過労とストレスであるということでした。

試練 p240 (主治医の先生との会話より)

これも読み漁った本にも共通して書かれていた一つですし、私自身も本当に実感としてありました。この大きさになるまでは何年もかかっていると言われましたが、その間仕事もかなりハードでめんどくさい人間関係もあったし、転勤でようやくストレスから解放されたものの未経験の部署だったので、仕事や人を覚えるストレスはあったのかな?と思います。そこに実家の父の肺ガン、その手術一ヵ月後の東日本大震災、母の脊椎管狭窄症の手術、そして父の脳卒中での4か月植物状態後の死、母の介護認定(腰痛)そのすべての手続きは離れて住む私の仕事で、休みはほとんど潰れていました。(高齢の母も自分の足腰がつらいのに父の看護、介護で大変な中、私ができないこともたくさんしてくれましたが)またその間に二人暮らしのアパートから主人の実家への引っ越しなどもありました。誰がどう考えてもフルストレスの状態が何年も続いていて、しかもガンが見つかる数年前、右の乳房に帯状疱疹もできていて、胸の違和感はすべてそのせいだと思い込んでいて、ますます発見が遅れたのでした。考えてみれば帯状疱疹もストレスが原因の一つだと言われていますよね。

ほんとにストレスを感じたら何かをセーブしないと大変なことになるんだと、後になって思いました。実際渦中にある時には考える暇もないんですけどね。今はそれが一度リセットされて、今の職場ではほぼストレスフリーだし、家でも病気を理由に自分ができる範囲のことをして無理しないことにしたらとても楽になりました。これはもしかしたら病気と引き換えに得られたものかもしれません。

「後悔しない人生」のために ガンだからこそできることもある

最初に私が覚えたのは、「悔いを残すとどんなに悔いが残るか」ということにほかならなかった。

退院 p275

生きている以上悔いが全く残らない人生はないでしょうけど、考えてみると自分の心が決めたことであれば、悔いはあってもわりとあきらめることもできるかもしれないですね。ただ悔いの大きさや深刻さは人それぞれ、でも病気になって立ち止まったから見つかるものも確かにあると思います。

よく言われる言葉が「もしあのときが最後だとわかっていれば…もっと話しておきたかった」とか「あんな言葉いわなかったのに」とか、または「せめてこれだけはやりたかった」とか…そんな後悔をしなくてもいいように、一つのチャンスをもらえたのかもしれないと今は思っています。

そうーだから、私にとっては、乳ガン、などというものはそれほど大した事件でもなかったのかもしれない。あまりにもあのときもいまも、私は駆け足でどたばた走り続けていた。「ちょっとガンになったくらいで」さわいだり驚いたりしているには私は芝居がやりたいとか小説が書きたいとか階ものもいけないし冷蔵庫には何もないけど今夜のおかずはどうしようとかそんなことばかりで必死であった。

他の女性たちは乳ガンをどのようにうけとめるのだろうーこのような本を書くことにしたのは、ひとつにはそれに興味があったからでもある。千葉敦子さんの本は買ったきりまだ読んでいない。同じ経験のことを本にするのに影響をうけるといけない(私はすごく影響をうけやすい)と思ったからである。この本を書きあげたら読もうと思っている。

一年後 P290-291

まあ…乳ガンは大したことないと言い切る勇気は私にはありません。どんな出来事も当事者にとっては「たいしたこと」ですからね。だからといってそのためにほかの大切なことを忘れて生きるのはもったいないとは思います。

たとえ健康な人生であっても、必ず「やり残し」はあると思います。むしろ「いつでもできる」と言う思いから結局何もできずに終わる人もたくさんいると思います。だから「もしかしたら死ぬかも」という切羽つまった気持ちだからこそ、「先延ばし」をしないようになれるのかもしれませんね。後悔の基準も人それぞれですから、自分が何をすれば後悔しないのかを考えて、そのために自分の時間を使っていこうと、改めて思いました。

パートナーの男性の役割はとても大きい

ただこれは奥さんや恋人が乳がんの手術をすることになった男性の人たちに声を大にして言いたいことだが、この手術をうけてその女性がどのようにしてそれをうけとれるかということは、絶対に女性自身ではなくてその女性のパートナーの男性にかかっている、という気がする。女性がたいして気にしていなくても、「もう女性として見られないのではないか」でないまでも「女性としての魅力をかんり削減されてしまったのではないか」という不安のせいで女性は憂鬱になってしまう。パートナーが「オッパイがひとつなくなったこととあなたの女性としての魅力はまったく関係はないのだ」ということを何回もちゃんとくりかえして納得させてあげたら、ほとんどのこの手術の経験者は性格が暗くなったりノイローゼになったりしなくてすむのではないかと思う。

一年後 p209

パートナー(夫とか恋人とか)のことはほんとに大事ですね。本文の中には危なっかしいほど行動的な中島さんを、心配しながらもいろいろとフォローしてくれるご主人のこともたくさん書かれていますし、一部の入院日記はご主人当てに話すように書かれている部分もあります。ご夫婦の仲の良さがそこここに感じられます。

私の場合ある意味で幸運なことに、夫の母が40代で乳ガンで手術をして80代の今も元気で過ごしているせいか、夫は乳ガンに対して落ち着いた反応をしてくれたので、私は申し訳なさとか自己否定に走るとかをしなくて済んだように思います。でも世の中には「俺のごはんどうするの?」なんて無神経な男性がまだまだ多いのが現実ですよね。でもそんなときは「病気になったのは私が悪いわけじゃないんだから、自分のことぐらいは自分でやって」と開き直ったらいいと思うんです。

この本の中でも中島さんは普段からよく相手と会話して人柄を確認するのはとても大事だと書かれています。ただでさえ体も心も弱っているところに、一番身近な存在であるパートナー次第で心持はずいぶん違うものだと思います。私の知人でもあきれるようなパートナーの話を聞きましたか、その方には幸いにとても心強い子供さんたちがいました。いざとならないと人の本性は分からないものですが、困難な時にそばにいてくれるのが本物だとはよく言われることですね。

人はいずれは死ぬもの、ガンが私を殺すのではなく死が私を殺すのだ

これはね、まさに受け取り方の部分ですね。私も以前から「必ずしもガンで死ぬわけではない」と思っていたのですが、それは父が肺ガンでありながら、亡くなったのは脳卒中だったので環境的にそう思えたのはありがたかったです。だからガンだけをむやみに怖がるよりも、明日どうなるかは今健康な人でさえわからないもの、事故や災害であまりにも突然になくなる人が毎日どこかではいるんだと考えて、むしろいつ死んでもいいような「心の準備」をさせてもらったような気がします。

要するにオッパイのひとつやふたつ大した問題じゃないと私は思う。というかそういう意味で大した問題などというものは私たちには存在しないのではないかと思っている。

たとえこれでまた再発して四十歳でしんだところでそれもやっぱり宇宙の歴史から見れば大した問題ではないのがひとりの人間の生というものである。宇宙の歴史からみれば大した問題ではなくても私の家族や私にとっては大した問題だ。だからといってガンであろうとなかろうといずれは死ぬのである。四十で死のうと百歳まで生きようと必ず死ぬのである。だったらあと六十年のばすためにやっきになって生きるよりも、むしろあと数年でいいから思う存分生きたほうが私はいいと思う。ただ「長生きをするため」に行きたいとは私は思ったことがない。生きているのはやりたいことをやるためだ。だから長さは意味がない。私自身の小さな肉体の問題も意味がない。私のオッパイがひとつでもふたつでも命にも生活にも別状はないのだ。これはつよがりではなくて本当にそう思っている。オッパイを苦に病んで時間を浪費している暇があれば一本でも多くのの小説を書き、一本でも多くの舞台を作るほうがいい。

一年後 p303

長生きをするために生きるのではなくやりたいことをするために生きる。これは私がこの本で一番心に感じ入った部分です。ここを忘れてしまう人がとても多いような気がします。本当に人は(人だけではなく生きとし生けるものすべて)必ず100パーセントいつかは死ぬんですよね。

ガンになって関係のある本やブログやその他ネットなどたくさんのものを見ました。その中でやはり胸を失うことへの絶望感だけでなく、抗がん剤で髪が抜けたりすることに対して、あまりにもショックで精神的に参ってしまう女性は後を絶たないのが現実です。今までのアイデンティティが崩れ去るのは間違いないですからね。

私も抗がん剤のせいで多すぎるぐらいの黒髪と、カットしないとぼうぼうになる眉毛、そして若い頃はマッチ棒を乗せても落ちなかったまつげなど、ほとんど抜けてしまいました。髪は徐々に戻っていますが眉は描かないと外に出られないレベルですからね、女性にとっての見た目がどれほど大切かよくわかります。それでもそれを嘆き悲しんでいたらますます老けてみえるからと、ウイッグを買ったり(現在6個目)アイブロウをいろいろ試したり、いままでやったことのないことをむしろ楽しむつもりで過ごしています。胸はね自分で編んだチアパイ(ガン患者さんのサイトで紹介していた編み物のパッド)使っています。「これが今の私だ」というところから、それでも元気に見えるように少しでも若く見えるようにしています。悲しんでいる時間はもったいないですからね。

落ち着いて自分と語り合ってみると、ふしぎなことに乳ガンになったことを私はあんまりイヤだと思っていないような気がする。これまでの三十数年の人生、私はいつでも「いつかは死ぬのだ」「おそかれはやかれ死ぬのだ」とずっと考え続けながら暮らしてきた。「だからやりたいことをちゃんといま、やらなくてはいけない」「だから後悔だけはしたくない」とーそれが、乳ガンになったことで、自分のその考えにはっきりとした根拠が与えられたような気がする。いくら自分にいいきかせていてもまだどこか観念にすぎなかったものが、ガン、というかたちをあたえられたことではっきりと目にみえる真実になったようなー去年一年で私は五本の舞台を作ったし、今年前半には『グイン・サーガ』を月間ベースで出すということをやった。まだまだこんなものでは足りないーもっと生きなくてはならない。もっともっとすべてを味わいつくし、やりつくし、そしていくらでも未練はあるからほっておいたらいつまででも私はやめないだろうからそれを無理やりに天からストップをかけられてそれでいいのだと思う。

一年後 p314-315

ここを読んでみると、私もあるていど生きてきて、人はいずれ死ぬとかはずっと頭の中にあった気がしますし、死ぬときに後悔しない人生を送りたいと思い続けてきました。もちろん土壇場でどうなるかは、なってみないとわからないものですけどね。自分の本性がどちらに転ぶか…楽しみなような怖いような。ただ自分の手の及ぶことに関しては後悔したくはないですね。

中島さんはこの時期舞台や小説をものすごい勢いでやっていたんですね。私もこのグイン・サーガ月間ベースというのは毎月出るのがうれしくて今でも覚えています。あのときにこんなことがあったんですね…想像もしてませんでした。

もしあと数年ないし十数年で私が結局しんだとしても、やっぱり私はなんという幸福な生涯を送った人間だろうと思うだろうと思う。あした死んでも同じことだ。もっと生きていたい、いくらでも生きていたい、という未練はあるけれども、それは要するに未練にすぎない。あと百年生きたってその未練はなくなりはしないだろうし、あと一年だってこれほど好き勝手に生きている以上の幸福はないのだから。

結局のところ私が自分の乳がん経験記(闘病記というほどのもんじゃないだろう)を書いておきたいなと考えるにいたったというのも、そういうことーこういうふうに感じたり考えた人間も同じ乳ガン患者のなかにはいたのだが、どうだろう、ということを書いて伝えたいと思ったからだろうと思う。

一年後 p316

ここまで読んできて気が付いていただけたかもしれませんが、私はこの乳ガン闘病記の前半からは全く引用しませんでした。なぜかというと本当に日々の記録か、もしくは旦那さんへの手紙の形で、非常に個人的なことを(特に毎日の病院食の記録とか、さすがものを書く方ですね、私はひとつもおぼえていません)日記のように書かれているので、あえてそこは本文を読んでいただいた方がいいと思いますし、私がここに書いておきたいのはガンになってどう思って、どのように過ごしたのかということですから。

私の考えるには、べつだんたまたま乳ガンにかかろうとかかるまいと、人間として生れ落ちた存在と言うものはすべて、生まれたときから死にむかって歩き始めているガン患者予備軍であるのだと思う。私たちはみんな「生」というガン細胞におかされている存在なのだ。それは「死」にむかって増殖してゆくが、それが増殖してゆくのがまさしく「生きている」ということである。

一年後 p316

必死になるー「必ず死ぬ」ーそう、必ず死ぬ、ともっと早くからわかっていたら、あんな風に時間ををムダにしなかったのに、と私たちは思うだろう。だから「必死」であることがいつも心にあるのは決して悪いことじゃない。不幸なことでもない。それは素晴らしいことだ。私はガンにかかってよかったのかもしれないつたと思う。胸はなくなってしまったが、まだかたっぽあるしそれで充分だ。それを見ると私は「再発すると死ぬのだなあ」と思い出さざるをえないだろう。だから「まだ時間はたっぷりあるのだし、ちょっとずるけてやるか」と思ったとき、「あしたにしようかな」と思うとき、私は「死んだらあしたはこないのだなあ」とまた思うだろう。それは私を上へ上へとひきあげてくれる。もしかしたらあと数年で死ぬのだと思うと、愛するとにいやが上にも優しくしたくなる。そばにいたくなる。もっともっと愛してあたくなる。一日でも長いほうがいい。でもあしたでもしかたはない。別にガンが私を殺すのではない。死が私を殺すのだから、むしろガンは私にもっとつよく「必死」についておしえてくれた恩人だといっていい。

一年後 p317-318

「キャンサーギフト」という言葉をご存じでしょうか?「ガンからの贈り物」という意味の言葉ですが、中島さんの場合はこの最後の一文がそうであろうかと思います。多くの方が「今まで気づけなかったことに気付くことが出来た」とか「自分がいままでどれほど幸せだったのかを知った」という形で耳にする言葉です。もちろんなかには「ただの負け惜しみなんじゃないの?」と言われるひともいるのですが、自分がなってみるとこれは本当にあるものだと思いました。もちろんそれは受け取る人次第だと思います。

例えば恋人が一生懸命考えて贈った誕生日のプレゼント、それを「うれしい」と思うか「こんなもの」と思うかほんとうに人それぞれですよね、実際の生活の中でさえ受け取る方の気持ち次第というのはよくあることなんだと思います。少なくとも私はいくつかのギフトを実感しています。自分でも一番驚いたのは、いままでのいろんなもの(例えば仕事のこととか家族のこととか、必ず自分がやらなければならないとか考える気持ちや不要だった人間関係など)がリセットされて、なんというか大掃除の後のような気分になったことがあります。命の心配をしなければならないときになんでだろう?と思った記憶があります。

アマゾネスは強くなるためにわざわざ胸を切り取っていた

その昔すさまじい強さを誇った女戦死だけの国があった。そこでは男の子が生まれると捨ててしまい、女の子だけを育てる。そして、女の子の乳房がふくらんでくると弓矢をひくのに邪魔だというのでその乳房を片方切り取ってしまい、より強い戦士になるように訓練して育てるのだった。だからその国の女戦士たちは全員片方しか乳房がない。右手が利腕の女戦士は右の乳房が、左手のものは左が、彼女たちの名をアマゾネスと言い、その国はアマゾン川の流域にあった、と伝える。

そう、頭をしゃんともちあげて、まっすぐに前を見るのだ。私は戦士なのだ。私はアマゾネスのように片方しか乳房がない女戦士だと思う。片方を切り取ってしまったのはより強い戦士となるため、よりすさまじく戦うためなのだ。これが私の人生、これが私のからだ、これが私の運命、これが私だと思う。

一年後 p319-320

アマゾネスについては私も多分十代のころに漫画か何かで知っていました。何で見たのかはすでに記憶の彼方ですが、弓を射ることに自分の体を合わせてしまうということが鮮明に記憶に残っています。まさか当時は自分が同じようになるとは想像すらしていませんでしたけどね。

この本のタイトルを見た時に「あ~なるほど」と、「そうか、私もある意味アマゾネスなんだ」と思いました。弓をもったことさえありませんけどね。高校には弓道部もあったし、知り合いにアーチェリーの選手の人も昔はいたんですけどね。

中島さんからのメッセージ 手術をした人だけではなく誰もがアマゾネス

まず、とにかく、何も悲しむことはないのだ。ということーガンだからといってどうということはない。必ず再発すると決まった訳でもなければ、再発してももうだめだと決まったものでもない。これはまあ私もまだ一年半しかたっていないのだからこれからどうなるかはまったくわからない。だがそのわからないものをくよくよとおそれい自分の生を自ら限りあるものにしてしまうのはもっともおろかしいと思う。

乳ガンをハンデに感じる必要はまったくないと思う。むしろ私たちをうちのめすのはそれをハンデと感じる心それ自体ではないかと思う。前にもいったようにアマゾネスたちは全員こういう体をわざわざ自分で作ってさえいたのだ。なくした乳房のモニュメントを作ったり、もう女性失格だと思い込んだり、なんとかして乳房を再建しようとしたり、そういうふうにしてそれにとらわれることもあるまい。べつだんみせびらかして歩く必要もないが、恥ずべき理由のためにそういうことになっているわけでもない。そのまま平静に自分のままでいればいい。かくすことも見せ回ることも恥じることもコンプレックスをもつことも必要ない。それをいとうような異性だったらあなたが愛するだけの値打ちは他の面でもありはしない。

エピローグーアマゾネスたちへー p328-329

ガンをハンデと感じる心、そう感じるか感じないかがある意味分かれ目かもしれません。でもそう思ってしまうのも仕方のないことだと思います。世の中優しい人ばかりではありませんし、人の痛みを思いやれる人ばかりでもないですしね。むしろ自分だけは違うと、ここぞとばかりに弱い者いじめのようなことをする人も多いのですが、本当は誰にだって可能性はあるわけです、今の世の中生涯で2人に1人はガンになるというのですから。そういう人はいつかひどいしっぺ返しがあるかもしれないと思って、思いきりスルーするのが一番だと思います。

昨年それまでとても元気だった義父が、救急車で運ばれて入院し、一度は退院できたもののその後1か月半で亡くなってしまいました。人の命はいつどこで消えてしまうのかわからないものです。すくなくとも私も「くよくよする時間」はもったいないと思います。それなら少しでもやりたいことに、愛する人たちと一緒にいるための時間に使えたらいいと思います。

だからもしあなたが私と同じようにガンにかかり、私と同じように乳房の切除手術をうけなければならなくなったとしても、それをどのようにうけとめるかは本当にあなたしだいなのだということを私はあなたにいいたかった。それを人生最大の悲劇だと考えてすっかり落込んで自分を暗く閉ざしてしまうか、それともそんなものではかすり傷をつけるこりともできないぞと考えてゲラゲラ笑ってやるか、ガン自体はもんだいではない。問題はそれをどのように受け止めるかなのだと思う。すべての体験というものはそうなのではないかと思う。

エピローグーアマゾネスたちへー p331

それとパートナーは本当に重大だ。あなたは自分のパートナーを、あなたが女性だったとしたら、自分がそうなったときになぐさめ、いたわり、回復に力をかし、つねにはげまし、ぐらつきがちな自信や健康をやさしく守ってくれると期待することができるだろうか。あなたが男性ならあなたは自分のパートナーをそうやって大切にしてあげられるだろうか。

エピローグーアマゾネスたちへー p331

私も同じようにガンになりました。そして同じく右胸の全摘手術を受けました。でも私は幸いにもこの本に出合う前に、すでに前に踏み出すことが出来ました。それは確かに夫のサポートの力が大きかったと思います。そしてそのおかげで乳ガンをハンデと思わずに過ごしてくることが出来ました。だからこそこの本の体験記を読んで、悩んでいる人こそ、こんな考えの人もいたんだということを知ってもらえたらと思います。

そうーだから私は思う。さきにアマゾネスの話をしたけれども、べつだんこの乳房の切除手術を受けた人間だけがアマゾネスであるわけではない。私たち人間は男も女も、全員がアマゾネスとして生きることができるのだ。いつわりの平穏や繁栄のなかでいつわりの安全をむさぼるほどもろい、弱いことはなく、私はそのもろさと弱さのほうが死よりずっとおそろしい。「武士道とは死ぬこととみつけたり」というのはそういうことなのではあるまいかと思う。

エピローグーアマゾネスたちへー p333

時を越えて変わらないもの 

この本は1992年に発行されて、2008年に文庫化されました。そして中島さんはすでにこの世を去ってしまいましたが、生きてガンと闘った記録は、今その渦中にいる私が読んでも少しも色あせるものではありません。20年以上たつ今でも十分参考になる体験記だと思います。

人生の中でまさに青天の霹靂ともいえる「ガン」の罹患は、家族や恋人も含めればかなりの人が経験していることだと思います。だからこそ「自分だけじゃないんだ」ということを知名度のある人が伝えてくれることはとても大切なことだと思います。私も樹木希林さんの本も読んでみましたが、やはり闘病のなかでもあきらめない前向きな姿勢が印象に残っています。

このあと「ガン病棟のピーターラビット」(すい臓ガンの闘病記)もすでに手元にあるので、じっくりと読んでみたいと思います。

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